時々、死ぬことがどうしようも怖くなる。
死そのものが怖いのではない。死んだ後も無限の時間が続き、その無限を自分が無の状態でずっといることが怖いのである。逃れられない事実に臆するのだ。
私はそうやって死という無限への入り口について考えたとき、歌を歌ったり、テレビを見たり、他の行動や情報で考えないように誤魔化していた。
今日はその無限への恐怖がyoutubeでダックスフンドの動画を見てるときに不意に襲ってきた。「この犬も私も、いまはあっけらかんとしているが、いずれ死んで無限という時間のなかに組み込まれてしまうんだな」
そう考えると逃げられない恐怖でやはり怖くなった。
私は考えて恐怖することから逃れるように自室を出た。今日も時間が経てば恐怖が薄れるだろうと思った。猫が目に入ったので猫を触った。猫は気持ち良さそうにしており、まるで死や無限の時間に対して一切の恐怖を抱かない様子だった。猫は死や時間について哲学的に考えないから恐怖しないんだろうなと感じた。
ふと思った。私も猫も死んだら無になる。私は私という存在を作るためにたくさんの物質が固まって出来ただけに過ぎない。猫もそうだ。死んで物質が崩壊していき、私は無くなる。私は世界というか時間というか全体になるのだろう。ある意味、今、私は私という人間のみの視点を持って考えているだけで元々はあらゆる物質はすべて一緒である。物、人間、動物、機械、それらは物質が違うだけだ。今、私という狭い人間の生という枠が有限であるだけでその外側には時間や全体という大きな枠がある。さらにはその枠を書いている背景もあるだろう。そうすると自分は現在、無限ではない有限の状態にあると錯覚し恐怖しているだけだと気づいた。自己の生命という有限の視点に捉われすぎて無限の時間に恐怖していた。既に自分は無限の時間に入っているのだ。小さな枠の中ばかり見ていてその枠がさらに大きな枠の中に入っていることを見落としていた。
この全体、及び背景の視点から見れば私たちはすべて同じである。すべて自分になるのである。いいこともわるいことも。形が違うものになっているだけ。そしてみんな小さい枠ばかり見てしまいそれがすべてだと、それが自分のみだと思い込んでしまうのだろう。小さい枠と書いたが枠の規模は自分自身なので大きい。すごーく広い視点で見れば全体の枠が見えてくる。背景があるということは考えなければ意識できないだろう。だから、人はよく自分主体になる。
猫は考えなくてもそういうことに気が付いていた(知っていた、または感覚的にわかっていたのかも)からこの無限という時間に恐怖を抱かないのかもしれない。