人生は意味がある、意味がない様々な意見があるが私は人生は視点によって意味の有無が決まると考える。
意味があるかないかの判断基準として私は影響を与えるかどうかを視点において考える。
その視点から考えていくと人生は意味のないものだと考えることができる。
彼女(彼氏)のような愛する者のために生きる、我が子のために生きる、自分の楽しいことがあるから生きる、自分がいなくては周りの人が困るから生きる。これらはすべて意味付けされる対象がある。我が子のために生きる人は子供の人生を豊かにするため、愛する者のために生きる人は愛する者が幸せになるように、周りの人が困る人はたくさんの人に迷惑をかけないように。
「対象になった人」や「本人」の視点で人生の意味を考えると人生の意味はあるだろう。
しかし、「悠久なる時間」の視点から見るとどうだろう。我が子も愛する者も周りの人も等しく死を迎えて無となる。子孫が長く続いたとしてもいつかは途絶える。そう考えると人生に意味などないのだ。
ここで必ず無くなってしまうとしてもその過程が大事なのだ、と思う人がいるだろう。
それは「生きている中での過程に意味がある」という考えを持っただけである。
「無になるから意味がない」「過程に意味がある」考え方次第、視点の持ち方次第なのだ。
そこで「過程に意味がある」と考えるのは何故だろうか。人は美しいものを見た感動や、苦しみを乗り越えた達成感などから喜びを感じていく。おそらくこれらのような幸せを感じていくことが大事で意味があると考えているのだろう。
だが幸せを感じるからなんだというのだ?幸せになれば人類は滅びないのか?どう足掻いても滅びは免れない。ただ自分が生きている間に人類は滅びないからみんなそのことについて考えないのだ。目先の生産だけを見るから意味があるを錯覚してしまう。
仮に永遠に続いていたとしても、それは果たして生産的なのか?
スポーツ、仕事上での称賛、友人、恋愛、セックス。これら楽しい幸せという感情を求めて人は意味をつける。
時間の視点からみれば幸不幸どちらでもいいのだ。どちらにせよ時は進む。
視点を大きくすればするほど意味はなくなる。
私はお手玉が好きだ。私の視点から見ればお手玉が消えれば悲しくなるだろう。しかし、お手玉に興味がない人から見れば意味をもたないだろう。
上司が死んでしまったら、悲しみや業務が大変になるだろう。しかしほかの会社から見れば意味をもたないだろう。
スマホがなくなったらスマホを使っている人は困る。しかしスマホを使わないものにとっては意味をもたない事柄だろう。
酸素がなくなったら、酸素を使って生命活動しているものが困るが地球にとっては意味のないことである。
地球がなくなったら、地球にあったものはまとまりがなくなるが宇宙にとっては意味のないものだろう。
宇宙が消滅しようとすれば、宇宙という存在がなくなるだろうが時間にとっては意味のないものだろう。
これらのことをもって意味の有無は視点の持ち方次第で決まる。
私は、はてなブログを閲覧することを楽しみの一つとして人生は意味があるという視点をもって生きている。
皆さんはなにをどのような視点をもって人生に意味をつけて生きているんでしょうか?
ありがとうございました。