才能とは人生におけるおもちゃかもしれない。
パソコン買った!スペック忘れそうだからメモにしとく
動画編集したいからcorei7欲しいなーって思って安いの探してたらこれが10万前後で売ってた。勇気を出して購入、使用してみた感想は・・・。
サクサク動きます。動画編集したいなーって思ってたけど結局めんどくさいなってなってやらずじまい。買ったことに後悔はない。前まで父の使い古したノートパソコンを使っていたがそれは分厚くて重かった。今回のパソコンは薄いので持ち運びやすくそこが大変気に入ってる。
無限への恐怖
時々、死ぬことがどうしようも怖くなる。
死そのものが怖いのではない。死んだ後も無限の時間が続き、その無限を自分が無の状態でずっといることが怖いのである。逃れられない事実に臆するのだ。
私はそうやって死という無限への入り口について考えたとき、歌を歌ったり、テレビを見たり、他の行動や情報で考えないように誤魔化していた。
今日はその無限への恐怖がyoutubeでダックスフンドの動画を見てるときに不意に襲ってきた。「この犬も私も、いまはあっけらかんとしているが、いずれ死んで無限という時間のなかに組み込まれてしまうんだな」
そう考えると逃げられない恐怖でやはり怖くなった。
私は考えて恐怖することから逃れるように自室を出た。今日も時間が経てば恐怖が薄れるだろうと思った。猫が目に入ったので猫を触った。猫は気持ち良さそうにしており、まるで死や無限の時間に対して一切の恐怖を抱かない様子だった。猫は死や時間について哲学的に考えないから恐怖しないんだろうなと感じた。
ふと思った。私も猫も死んだら無になる。私は私という存在を作るためにたくさんの物質が固まって出来ただけに過ぎない。猫もそうだ。死んで物質が崩壊していき、私は無くなる。私は世界というか時間というか全体になるのだろう。ある意味、今、私は私という人間のみの視点を持って考えているだけで元々はあらゆる物質はすべて一緒である。物、人間、動物、機械、それらは物質が違うだけだ。今、私という狭い人間の生という枠が有限であるだけでその外側には時間や全体という大きな枠がある。さらにはその枠を書いている背景もあるだろう。そうすると自分は現在、無限ではない有限の状態にあると錯覚し恐怖しているだけだと気づいた。自己の生命という有限の視点に捉われすぎて無限の時間に恐怖していた。既に自分は無限の時間に入っているのだ。小さな枠の中ばかり見ていてその枠がさらに大きな枠の中に入っていることを見落としていた。
この全体、及び背景の視点から見れば私たちはすべて同じである。すべて自分になるのである。いいこともわるいことも。形が違うものになっているだけ。そしてみんな小さい枠ばかり見てしまいそれがすべてだと、それが自分のみだと思い込んでしまうのだろう。小さい枠と書いたが枠の規模は自分自身なので大きい。すごーく広い視点で見れば全体の枠が見えてくる。背景があるということは考えなければ意識できないだろう。だから、人はよく自分主体になる。
猫は考えなくてもそういうことに気が付いていた(知っていた、または感覚的にわかっていたのかも)からこの無限という時間に恐怖を抱かないのかもしれない。
復縁について、モヤモヤしていたがハッとした。
私は一年前に恋人と別れている。その人とは同棲生活するまで発展していた。
別れてからその人のことを考えなかった日のほうが少ない。考えないようにしても、自然と頭の中をよぎる。人を好きになるというのはここまで辛いのか。
より戻そうとは度々思っていた。同じ過ちを繰り返す、またはその人を幸せにできないと自分に言い聞かせてその人に連絡はしなかった。
そして一年たった今、友人を通じてその人に連絡しよう!という気持ちが強くなった。だが迷いもあった。言葉では表せないモヤモヤがありどうすればいいのかわからなくなった。
結果、連絡をやめた。それはこの動画を見たからだ。
この動画を見てモヤモヤはふっとんだ。
おおまかに動画内容を説明すると復縁する人はわがまま(自分都合すぎる)で別れたときの自分と大して変わっていないのに付き合っても前と同じ原因で別れるだけと言っていた。
まさにその通りである。直視したくない真実を突き付けられた気分だった。この事実は自分でもわかっていた。だが私はそうではないと、また昔みたいな幸せな恋愛生活が送れるはずだと幻想を願っていたのだ。
別れてからずっとひきづっていたが、少し胸が晴れた。自分の考えと誰かの考えが一致すると信憑性が増す。自分は間違ってなかったのだと。
成長してるなら復縁もアリという考えもあるのだが、自分の能力は現時点で限界に近いと思う。そう考えると今の自分と恋愛してくれる良い人なんていないんだろうなと思った。そこまで考えると悲しくなった。これが現実。だから自分は直視しなかったのだ。
前のブログにも書いたが見た目が悪い人とお付き合いしたが、性格も合わず恋愛もまったく楽しくなかった。楽しくいようとすればするほど苦しかった。これが今の自分の能力に見合った恋愛なのか。悲しい。
有能でありたかった。自分がもっと稼げる力が有り、相手を楽しませるに能が有り、相手を魅入らせる能が有ればよかったのに。
ただ一つ自分で嬉しかったことがある。復縁について考えてるとき、もしかしたら相手にもう恋人ができてるかもしれないと頭によぎった。その時、許せないとか悲しいとかマイナスな感情にならずに、ただ「ああ、それならいいんだけど、よかった。」と安心したことだ。
自分が恋人との別れを受け入れたのは相手の幸せを願っていたからだ。それはその人にも言った。その時の言葉は強がりなだけで本当はその人のことを憎んでしまってるのではないかと思っていた。別れてから悲しく何故離れていくのか怒りも感じた。愛した人を憎むなんて嫌だった。でも、自分の気持ちはどう自己暗示しても簡単には変わらないものだ。
だから、ホッとしたのだ。
実際に恋人ができたかどうかわからないが、私は恋人の幸福を願い、また、自分のためにも復縁はやめようと思う。
なぜそこにいる女性のほうがが綺麗に見えるのか
お店や外で見かける女性はキレイだと認識する機会が多い。私にとって彼女たちを恋人にすることは不可能であり高嶺の花である。それでもキレイなものは見ておきたい。だからアニメや芸能人の画像をスマホで保管して満足感を得ようとした。しかし満たされず、空虚な思いになった。
視覚情報として絶対美しい人物のはずなのになぜか。私は深く考えた。たどり着いた結論は二次元静止画と三次元の情報量の違いである。スマホの画像などは二次元静止画でその角度でそのまま止まった状態でしか見れない。対して三次元、今目の前に生きている女性だといろんな角度から見え呼吸のリズム、仕草、瞬き、反応など多くの情報を得られる。そして今まで見てきた女性の年齢、体型、反応から比べて健康そうかどれだけ自分の体を管理しているか恵まれた身体をしてるか判断していくことができ、良い項目がつくたびに綺麗だと判断していくからだ。時間とともに追加される情報により加点ができるのだ。これに比べて二次元静止画だとその場面でしか採点できないので、いくら綺麗だとしても初期の点数しか稼げない。だからそこにいる女性より美しいと思う場面が少なくなり、点数が低くなる。だったらyoutubeの動画で満足感を得たらいいじゃないかと思ったが、画面越しに見る動画は平面でこれも三次元に比べると情報量が少なく満足感が得にくい。生で見る感覚が与える感動はこの情報量の違いだと思う。
美人youtuberより私にとっては牛丼店で働く痩せて身だしなみを整えた若々しい女性のほうがかわいいという感動を多く与えてきたのでこのような疑問が生じ、整理するためにブログに書いた。ありがとうございます。
人生は意味があるかないか、について
人生は意味がある、意味がない様々な意見があるが私は人生は視点によって意味の有無が決まると考える。
意味があるかないかの判断基準として私は影響を与えるかどうかを視点において考える。
その視点から考えていくと人生は意味のないものだと考えることができる。
彼女(彼氏)のような愛する者のために生きる、我が子のために生きる、自分の楽しいことがあるから生きる、自分がいなくては周りの人が困るから生きる。これらはすべて意味付けされる対象がある。我が子のために生きる人は子供の人生を豊かにするため、愛する者のために生きる人は愛する者が幸せになるように、周りの人が困る人はたくさんの人に迷惑をかけないように。
「対象になった人」や「本人」の視点で人生の意味を考えると人生の意味はあるだろう。
しかし、「悠久なる時間」の視点から見るとどうだろう。我が子も愛する者も周りの人も等しく死を迎えて無となる。子孫が長く続いたとしてもいつかは途絶える。そう考えると人生に意味などないのだ。
ここで必ず無くなってしまうとしてもその過程が大事なのだ、と思う人がいるだろう。
それは「生きている中での過程に意味がある」という考えを持っただけである。
「無になるから意味がない」「過程に意味がある」考え方次第、視点の持ち方次第なのだ。
そこで「過程に意味がある」と考えるのは何故だろうか。人は美しいものを見た感動や、苦しみを乗り越えた達成感などから喜びを感じていく。おそらくこれらのような幸せを感じていくことが大事で意味があると考えているのだろう。
だが幸せを感じるからなんだというのだ?幸せになれば人類は滅びないのか?どう足掻いても滅びは免れない。ただ自分が生きている間に人類は滅びないからみんなそのことについて考えないのだ。目先の生産だけを見るから意味があるを錯覚してしまう。
仮に永遠に続いていたとしても、それは果たして生産的なのか?
スポーツ、仕事上での称賛、友人、恋愛、セックス。これら楽しい幸せという感情を求めて人は意味をつける。
時間の視点からみれば幸不幸どちらでもいいのだ。どちらにせよ時は進む。
視点を大きくすればするほど意味はなくなる。
私はお手玉が好きだ。私の視点から見ればお手玉が消えれば悲しくなるだろう。しかし、お手玉に興味がない人から見れば意味をもたないだろう。
上司が死んでしまったら、悲しみや業務が大変になるだろう。しかしほかの会社から見れば意味をもたないだろう。
スマホがなくなったらスマホを使っている人は困る。しかしスマホを使わないものにとっては意味をもたない事柄だろう。
酸素がなくなったら、酸素を使って生命活動しているものが困るが地球にとっては意味のないことである。
地球がなくなったら、地球にあったものはまとまりがなくなるが宇宙にとっては意味のないものだろう。
宇宙が消滅しようとすれば、宇宙という存在がなくなるだろうが時間にとっては意味のないものだろう。
これらのことをもって意味の有無は視点の持ち方次第で決まる。
私は、はてなブログを閲覧することを楽しみの一つとして人生は意味があるという視点をもって生きている。
皆さんはなにをどのような視点をもって人生に意味をつけて生きているんでしょうか?
ありがとうございました。